新庄藩六万石の祖と松岡の縁
古い歴史を持つ松岡。そこにはかつて竜子山城という名の中世の山城がありました。
江戸時代初頭、その城を改築し、平山城の近世大名の松岡城として整備したのがこの戸沢政盛です。
戸沢政盛は仙北角館城主戸沢盛安の子として生まれましたが、豊臣から徳川へと権力の移る激動の時代の中、関ケ原の戦いにおける功を認められ、慶長7年(1602年)常陸国高萩地方に転封(領地替え)されることとなりました。この転封は、徳川家に忠実を示した政盛を、江戸の幕府の近くに配置しようという政策によると考えられています。
それからちょうど20年後の元和8年(1622年)、政盛は出羽国最上・村山郡(山形県)に国替えを命ぜられます。その石高は六万石。常陸領は四万石でしたから、大幅な加増となりました。その後戸沢氏は、新庄藩の大名として明治初年まで十一代にわたってこの地方を治めました。
わずか20年間と考えると、戸沢氏と松岡との関わりは一見薄いように感じられます。しかし、この点について『新庄市史』では次のように述べられています。
「戸沢氏の松岡時代はわずか二〇年に過ぎないが、後の新庄藩政にとっては大きな意義を持っていた。その最大のことは、この二〇年間を通して、戸沢氏は近世大名に脱皮、成長し得たということである。ここで召し抱えられた家臣団が後の新庄藩政を担うということも、この中の一つと考えられる。」(『新庄市史』第2巻,p163)
例えば、高萩にも多くみられる舟生姓ですが、元龍子山城主大塚氏の一族であった舟生治右衛門は、政盛のもとに召し抱えられ、後に新庄藩政初期において、川の内村・釜淵村などの開発に功をなしたそうです。この他にも松岡時代に召し抱えられ、新庄でも活躍した家臣は多数に上ります。
また、政盛自身の経験としても、次のように述べられています。
「(松岡地方において)地方[じかた・農村や土地のこと]の支配については、角館地方に比較して、かなり進んだ方法がとられていたようで、政盛のここでの経験が、後の新庄藩政の確立に影響するところ大であったことは疑いない。」(『新庄市史』第2巻,p212)
新庄転封時、政盛は38歳。若き戸沢政盛にとって20~30代を過ごした松岡時代は大きな意味を持っていたといえるでしょう。
そのような縁から、高萩市は山形県新庄市と友好都市となっており、夏祭りへの参加など、現在でも様々な交流が行われています。戸沢氏の足跡をたどって、新庄を訪れてみるのはいかがですか?
政盛誕生。 角館城主戸沢盛安が鷹狩先の村にて百姓源左衛門の娘に生ませた子であるといわれている。その後、その娘の嫁いだ修験者東光坊のもとで育つ。 |
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秀吉の小田原陣に参加していた父盛安、陣中にて死去。弟光盛が跡を継ぐ。 | |||
光盛、秀吉の朝鮮出兵に際し、姫路にて病没。 八月、政盛、角館より迎えられ、大坂城にて秀吉に拝謁、叔父光盛の遺領を継承することが認められる(拝謁は翌年との説あり)。 |
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秀吉死去。政盛、角館帰還。 | |||
酒田東禅寺城の上杉勢を攻める。 | |||
家康より常陸国四万石への転封を拝命。 | |||
政盛、茨城郡小川城入城。 | |||
松 岡 時 代 |
秀忠に対し多賀郡下手綱村に築城することの許可を求める。 九月、工事開始。 |
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四月、松岡城完成。 | |||
“政盛”と名を改める(ここまでは安盛)。 | |||
秀忠の大坂征討の命を受け、小田原城の守衛に当たる。 荒川村(安良川)の八幡宮修復、鳥居を寄進。 |
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大坂夏の陣に際し、江戸城の守衛に当たる。 | |||
家康、死去。 | |||
日光山普請の命を受け、尽力す。 | |||
出羽国、最上・村上二郡への国替えを拝命。 | |||
松岡城を水戸藩へ引渡。 九月、最上郡真室城入城。 |
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改築整備した新庄城へ移る。 城下町の整備、新田開発、鉱山開発に努める。 |
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閏正月22日、江戸桜田藩邸にて死去。 享年64歳。 |
(参考文献:新庄市編 1992 『新庄市史』第二巻(近世・上)新庄市)
竜子山城(松岡城)改築と城下町の整備
戸沢氏は常陸転封された際、多賀郡に三万三千石、茨城郡の小川地方に七千石の地を与えられ、現在の小美玉市にあった小川城を居城としました。しかしそこは不自由なところであったようで、多賀郡下手綱村にある竜子山城を改築し、そこを居城としました。常陸国替えから4年後の慶長11年(1634年)のことです。
この改築について、『高萩市史』は次のように述べています。
「竜子山城は大塚氏が折木城に移ってからあき城となり、ここに至るまでに相当の年数が経過しているので、破損の状態もひどかったと思われるが、岩城氏の一武将の居城としての竜子山城は、四万石を領する大名の居城には、その規模も小さすぎたであろう。その上、竜子山城は元来が山城であり、政庁を郭内に持つ必要に迫られた近世大名の立場からみれば、これは不適当なものである。従って、戸沢氏の竜子山城修築は、山城の部分に加えて、新たに濠や土居を設けた平城の部分、すなわち今の松岡小学校の敷地となっているところが拡張された。」(『高萩市史』上巻,p.278)
このとき戸沢氏は竜子山城を松岡城と改称しました。後の中山氏時代に郡奉行となった寺門忠太夫は、このいきさつについて次のように書いています。
「赤水曰、戸沢氏の時竜子山の名を松岡城と改む、其故は山の形実に雲竜の蟠る如くなれは竜子山と号すと見へたり。然れとも古記に竜虎、竜狐、立竜と書し、皆戦争の声韻ありて不祥に似たり。松は千歳の名木也、又松の形を蒼竜と云、山の背を岡と云、松岡の二字は竜子山の蒼々たるを能く形容す、故に祝して松岡城と名くと云」
(『北茨城市史』第2巻所収「松岡地理誌」,p.22 [文中の平仮名は原文では片仮名])
考古学調査においても、この時期に多くの建物が整備されたことが確証されています。当時の松岡城について、調査報告には次のように描写されています。
「当時の松岡城の景観は、戦国山城の代表的な一型式をもつ階段的連郭式の城郭を配した龍子山が背後にそびえ立ち、高まりをもった城内道が二の丸から三の丸の中央を鍵の手に屈曲しながら縦断し、大手門へと続いていると想定される。また山城の郭の数は18を越え、櫓台や戦国期から見られ始める折邪などの土塁が配されており、大手門側から見る景観はさぞかし雄大なものであっただろう。」(『松岡城跡D地点』 p.30)
山城の遺跡は各地に多数ありますが、このような近世の城郭は多くありません。そのような中で上のように堂々とした松岡城は貴重な遺跡です。
松岡城跡
(写真提供:高萩市教育委員会)
文政2年銘「松岡城郭草之図」(『高萩市史』より)
大手橋 | 16 | 佐々氏宅 | 31 | 御番所 | |
門 | 17 | 加藤・鈴木氏長屋 | 32 | 堀切 | |
御番所 | 18 | 御普請小屋 | 33 | 二の丸 | |
長屋 | 19 | 御台所 | 34 | 本丸 | |
稽古場 | 20 | 厩 | 35 | 櫓台(王塚) | |
岡本氏屋敷 | 21 | 下馬所 | 36 | 御祠堂 | |
岡本氏蔵 | 22 | 御殿 | 37 | 陣鼓 | |
御郡方役所 | 23 | 天満社 | 38 | 御矢倉 | |
評定所 | 24 | 稲荷社 | 39 | 御矢倉 | |
関根氏長屋 | 25 | 御番所 | 40 | 御矢倉 | |
長屋 | 26 | 内下馬 | 41 | 井戸 | |
長屋 | 27 | 御矢倉 | 42 | 門 | |
長屋 | 28 | 籾蔵 | 43 | 稗倉 | |
山口氏宅 | 29 | 籾蔵 | |||
稗倉 | 30 | 籾蔵 |
左の城郭図は、文政2年(1819)、戸沢氏が松岡を去ってから200年ほど後のもの。
とはいえ、中山氏の入城後、改修などの記録が見られないことから、中山氏は戸沢氏の築城した城をそのまま利用していたと思われ、戸沢氏時代の松岡城の姿とほぼ同視してよいとされる。
(松岡城跡発掘調査会 1995, p.8)
戸沢政盛・松岡城 関係所蔵資料(一部)
新庄市編 1992 『新庄市史』第二巻(近世・上)新庄市 高萩市史編纂専門委員会編 1969 『高萩市史』上 pp.271-290 江尻光昭 1988 「岩城氏の没落と戸沢氏の支配」北茨城市史編さん委員会編『北茨城市史』上 pp.349-389 |
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(竜子山城) |
茨城県考古学協会 2010 『茨城の考古学散歩 茨城県考古学協会30周年誌』東れい書房 p.127 茨城県教育庁文化課編 1985 『重要遺跡調査報告書2(城館跡)』茨城県教育委員会 pp.162-163 茨城県生活福祉部総合県民室編 1984 『茨城の景観』茨城県生活福祉部総合県民室 茨城地方史研究会編 1989 『茨城の史跡は語る』茨城新聞社 樫村宣行 1982 『松岡城A地点遺跡』松岡城A地点遺跡調査会 鷺松四郎 1981 「高萩地方の城館」高萩市史編纂委員会編 『高萩市史』上 国書刊行会 pp.224-231 鷺松四郎 1988 「岩城氏の侵入と車・竜子山領等の割譲」北茨城市史編さん委員会編『北茨城市史』上 pp.267-278 高萩市教育委員会生涯学習課編 2003 『高萩市の史跡・文化財』高萩市教育委員会 pp.6-9 寺門寿明 2007 「五百城文哉の久慈郡遊歴」吉成英文編『常陸の社会と文化』ぺりかん社 pp.350-351 中山雅生 1998 「松岡城」『祖先の足跡を尋ねて』グループわいふ p.29 藤原均 1995 『松岡城B地点遺跡調査報告書』松岡城跡発掘調査会 宮田和男・瓦吹堅 2010 『松岡城跡C地点』高萩市教育委員会 宮田和男 2011 『松岡城跡D地点』高萩市教育委員会 宮田由文 2006 「漢詩集「詩文愚草」と龍子山城、松岡賢人」高萩市文化協会編『ゆずりは』11 pp.50-73 |